『JOKER』 ひたすら2つの音程だけを行き来する旋律は、終わりなき煉獄の日常を美しく彩る

※ネタバレ度:小~中(見ようか否か迷っている人には、ちょうど良いと思います。)

「JOKERはメンタルに来るから、見るのは止めた方が良いかもしれない」と友人に言われ、見ようか止めようか大分迷った。なぜお金を払って鬱な気分にならないといけないのか、意味不明ではないか?!

それでも、恐いもの見たさが勝って、Amazon Prime Videoでポチったところ、結果としては「最高だった! 見るのを止めなくて本当に良かった!!」。鬱になることはなく、さりとて躁になるわけでもなく、この映画が描き出す世界の美しさに、ただただ惚れ惚れとしたのだ。

その美しさに最も激しく心を奪われたシーンがこちら。

© Warner Bros. Entertainment Inc.

主人公のアーサーが、地下鉄の中で絡んできた3人を銃殺した後に、公衆トイレに駆け込んで、「ああ!なんてことをやってしまったんだ!」と後悔するのかと思いきや、何かに目覚めるかのようにステップを踏み始め、独特のダンスをするシーンだ。

アーサーが引き金を引くまで

アーサーは、ピエロの派遣業で僅かな収入を得て、いつかはメジャーなコメディアンになることを夢見つつ、母親と二人で貧しい暮らしを続けている。ストレスを受けると笑いが止まらなくなるという疾患を持ち、周囲からは気味悪がられるが、自宅では体の悪い母親を献身的に介護する優しい男だ。

ある派遣先で仕事中に暴行を受けたアーサーは、同僚から護身用の拳銃を手に入れるが、仕事中に拳銃を持ち歩いていることがバレて派遣業者から解雇を言い渡される。その帰りの地下鉄の中で、笑いの発作が止まらなくなったアーサーに、3人の男が絡んできて暴行を始める。アーサーは耐え切れず、拳銃を取り出して・・・

そのダンスは、情動に突き動かされた熱狂の表出ではない。食卓の上に佇む果物や頭蓋骨のように静謐で、プランクトンの雪の中を漂う深海魚のように優雅で、果てなく繰り返される無言劇のように平穏である。染み入るような閑寂の中で、アーサーは心の深淵から這い出た無意識の声に従って静かに舞い踊るのであった。

その凄絶なまでに美しいダンスのバックグラウンドに流れる、これまた感覚中枢が痺れるほどに美しい音楽がこちら。

音楽を担当したヒドゥル・グドナドッティルのチェロが奏でる、この曲の旋律にはC#とEの2音程だけしか出てこない。延々とこの2つの音程だけを行き来し、しかも極めて機械的な動きだ。それにもかかわらず、この旋律は途方もなく美しい。それは何故か?

その背後で静かに奏でられ、旋律との関係性の中から絶妙にエモーショナルな響きを醸し出す和声が存在するからだ。この和声の進行を背景に、僅か2音程だけの旋律は、アーサーの繊細なダンスと共に、この世のものとは思えないほどに美しいシーンを創り出している。

ここで、ヒドゥル・グドナドッティルによる、このシーンについての言及を見てみよう。

― Bathroom Danceのシーンでは、撮影中にあなたの楽曲を流したんですよね?

そのシーンは元々脚本には無かったのですが、彼(主役のホアキン・フェニックス)はアーサーがジョーカーへ変身する場面を加えようとしていました。それは、アーサーがその内面においてジョーカーになる瞬間です。

彼はそのシーンの演技を考えるのに少し苦労していました。そこで、トッド(トッド・フィリップス監督)は、撮影セットの中でこの楽曲を繰り返し流しました。彼はただそれにリアクションしたのです。それは私が書いた最初の曲であり、私が脚本を読んで感じたことに対する、最も強く、かつ、最も肉体的なリアクションでした。

ホアキンがこのシーンで表現していることは、私の音楽表現とシンクロしています。コミュニケーションを全く行うことなく、私たちは同じ空間にいることが出来たのです。これは、美しく、協調的で、dialogue-freeなプロセスでした。

Slash Film – ‘Joker’ Composer Hildur Guðnadóttir on the Magic of the Unsaid and That Stunning Final Scene [Interview]
https://www.slashfilm.com/joker-composer-interview/

なんということだ!! 監督が計算ずくで撮影した映像に、後から音楽を付けたものだと思い込んでいたが、全く異なるプロセスで即興的に創り上げられたシーンだったのだ。

その即興の中心的役割を担ったのは、ホアキン・フェニックスとヒドゥル・グドナドッティルによる、dialogue-freeなCollaborative Creationであり、トッド・フィリップス監督は、そのCreationのサポート役を果たしたようだ。

この映画を代表する強烈なシーンがこのように創造されたことを考えると、この作品により、ホアキンがアカデミー主演男優賞を、ヒドゥルが同作曲賞を受賞し、トッドが同監督賞を逃したのが腑に落ちる。(もちろん、サポート役としてトッドが果たした役割は非常に大きく、素晴らしい仕事をしたと思うけど。)

創造の神からの祝福を一身に受けた、シナプスの火花が散るようなCollaborative Creation!!(こんな瞬間に、死ぬまでに一度で良いから参画してみたい。。)

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さて、ジョーカーとなったアーサーは何処へ向かうのか?

© Warner Bros. Entertainment Inc.

アーサーがジョーカーになることによって手に入れた、それまでには感じたことのない、心の落ち着き、自由な意志、力強い自信は、彼が生きる意味を明らかにしてくれるのだろうか。

その答えは、ヒドゥル・グドナドッティルが、脚本を読んで最初に書いたという、“僅か2音程だけの旋律”の楽曲にあるのではないだろうか。なぜならば、最初に得たインスピレーションが最も真理に迫っていることが往々にしてあるからだ。

その旋律の背後で鳴る和声は、最初はストリングスによって極めて静かに奏でられ、徐々に大きくなりコーラスも加わって色彩感を増していき、最後にはティンパニを伴って力強く響く。しかし、それでもなお、旋律は延々と2つの音程だけを行き来している。

そして、ジョーカーが引き起こす出来事は、最初はさざ波となって静かな街に打ち寄せ、徐々に荒れていき多くの反乱者が加わって暴動となり、最後には悪のヒーローの出現をもたらす。しかし、それでもなお、アーサーの心の中では、救いなき堂々巡りが繰り返され、真実の生に近づくことはない。ひたすら2つの音程だけを行き来する旋律の如く、終わりなき煉獄の日常を生きるほかないのだ。

© Warner Bros. Entertainment Inc.

しかし、その日常を彩る旋律は、繰り返す度に美しさを増していく。ヒドゥルの鋭利なインスピレーションが生み出した創造的逆説。その切り口から零れ出す流麗な響きは、“どんなに絶望的な状況にあっても生きる意味はある”と訴える。アーサーの人生へ、そして、アーサーと同じように、“意味への渇望”から逃れられない私達の人生へと。

この記事を書いた人

2020年に突如、映画を見て語り合うことの面白さに目覚めました。映像や音楽のダイレクトな美しさから、ストーリーの奥に隠されたメッセージの深さまで、共に楽しく掘り下げていきましょう!

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