「泣きたい私は猫をかぶる」レビュー:泣けた人と泣けなかった人限定。矛盾する要求を次々突きつけられるムゲの痛み

『泣きたい私は猫をかぶる』予告編 – Netflix

※この記事はネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。 

この物語は、美代の追い込み方が凄い。天真爛漫、捉えどころがなくて、何を考えているんだか分からない「無限大謎人間」から「ムゲ」とあだ名された美代。彼女がまわりから謎に見えたのは、本心をひた隠しに生きていく防御方法だったのだろう。美代を突拍子もない行動で共感の隙を与えない不思議少女に仕立て上げたあと、物語は中盤に、心を守る厚い皮を剥がしにかかる。共感の度合いは低かったのに、皮を剥がされる美代の痛みの表現が生々しく、ふいに涙が流れ、他人事には思えなくなってしまった。表現の生々しさは、会話にあったのだと思う。特に印象に残った会話を2つ振り返ってみる。

会話

日之出に大嫌いと言われ、心が砕け散って部屋で泣いている美代に、父親の再婚相手の薫が話しかける。薫のやさしさが、美代には自己満足にしか感じられない。美代の状況を察することのできない薫がダメ押しの刃をむける。

薫「みよちゃん、いる?」

美代「いますー」

薫「お茶にしない?」

美代「あたしはパスでー」

薫「ちょっと、入っていい?」

美代「えー、、、、どうぞ」

美代「いま、あたしダイエット中なんで」

薫「みよちゃん、わたしが一緒にいるのイヤ?」

美代「なにそれ、えぐいドラマみたい。ないない。全然そんなことないですよ。あるわけない」

薫「どうして笑うの。みよちゃん、いつもそうやって笑っているけど、ほんとは無理しているんじゃないかなって」

薫「わたしね、みよちゃんのこと、、」

美代「勝手過ぎるんだよ」

薫「え、勝手?」

美代「勝手過ぎる、わがまますぎる、、無理して笑って何が悪いんだよ。そうしたいからそうしてるんだよ」

美代「なんなんだよ。再婚とか、そんなんこっちが傷つくのは最初からわかってんじゃないか」

美代「でもなんとか受け入れて平和に暮らそうとしてるんじゃん」

美代「それなのに。今度は無理して笑うなとか、どんだけ押しつけるんだよ」

薫「みよちゃん。。」

美代「お母さんだってさ、わたしのことを捨てて出てったくせに、今度は一緒に暮らしたいとか」

美代「わたしはお母さんもお父さんもかおるさんもどうだっていいんだよ」

美代「みんな、いらないんだ」

映画「泣きたい私は猫をかぶる」41分50秒~43分35秒

うっとうしいけど、優しく問いかける薫に、「勝手過ぎる」と涙をこらえて訴える美代の姿に、自分の心もガラガラと音を立てて崩れ落ちたような気がした。言いたいけど、言葉にするのが、とても難しい本当のことを美代が訴えたとき、美代と薫の関係が壊れた。もう修復できないと思い込んでしまうほどに。本音を言葉にすると、涙が出てしまうことはないだろうか。そんな記憶が思い出され、とめどなく涙が流れてきた。美代の痛みが伝染した。

どうにも涙が止まらなかったが、10分もたたずに、頼子の思い出が追い打ちをかけてくる。また、あふれ出してしまった。美代と頼子のつながりを印象づけるとともに美代の傷が長い間膿みつづけていたことが伺える。

美代「あたしだっていらない。よりちゃんもお母さんも」

美代「いらない。いらない。いらない。いらない。いらない」

頼子「まって。まって、ムゲ。わたしは、ムゲいる。ムゲがいらなくても、いる!」

頼子「ムゲー」

頼子「ムゲ、ごめんね。待ってムゲ。ごめんなさい」

映画「泣きたい私は猫をかぶる」51分55秒~52分57秒

心の痛みが伝わってくる。巧みな会話と配置の妙は、目の前で繰り広げられる他人と他人のやり取りを、まるで自分のことのように感じさせる。もう、ムゲは、無限大謎人間ではない。ぼく自身だった。

再構築

関係の再構築は、自分の思っていることが思い込みであることに気づくところから始まる。自分以外の視点で、世界を見つめ直すのは難しいことだ。ファンタジーのいいところは、リアルではありえない手法で、リアルをより鮮明にわかりやすくできるところだ。文字通り、自分の身体を離れて、立場を変えて見渡す景色は、登場人物たちに変化を与える。

きなこの望みは、薫に幸せを与えることだった。美代に成り代わることで、より長く薫のそばで、薫のために生きることができると考えた。ところが、実際に、美代になってみると、別の世界が見えてくる。聡明な彼女は気づく、むしろ薫から幸せが遠ざかってしまったことに。聡明といっても実際にその立場に立たなければわからなかったのだから、聡明さは経験を積んでいかないと磨かれないのかもしれない。

きなこは方法を間違えたことに気づき、すぐに方向転換する。鮮やかな転身はテンポが良かった。薫にとっての自分、薫にとっての美代。その関係に気づく。自分のライバルとも感じていた美代も、薫にとって幸せのひとつのパーツであること、そして、猫である自分自身も同じくらい大切であることを。

美代も人の言葉が聞き取れなくなって、大切な存在に気づく。心にかかる重圧から、欲しいのにいらないと言ってしまう辛い後悔がにじみ出る。美代は顔をあげ、向かい合う決心をする。

気遣ってくれる人たちが何人もいる自分という存在。結構良かったじゃん。猫になることで、真っすぐ向かいあうことのできなかった人たちの思いを美代は知ってゆく。相手から見た自分を知ってゆく。美代を知ってゆく。

美代が、まわりの人間を案山子にかえてしまうのは、コミュニケーションの拒否なのだろう。唐突に現れるし、奇抜な感じを受けるが、これとよく似た表現として、「聲の形」で石田が人の顔を見ることができない心情を、まわりの人の顔に×(バツ)を貼り付けて表したことを思い出させる。どちらも強いストレスで、理性より先に心が拒否する様が伝わってくる。10代の繊細な心情を描いた作品は、いくつもあるけれど、「聲の形」同様になかなか思い切った表現だ。

物語の可能性

相手の立場に立ち、相手の立場を知ることで、パズルのようにはまり出す気持ち。相手の立場で考えなさいと言われて、その通りにできたら、どんなにいいだろう。悲しいことに、言葉の意味は、言葉だけではわからないものだ。物語を通じてなら、望みはある。登場人物たちと一緒に、悩み悲しみ、安堵し喜ぶことを通じ、彼らが何を考え、どんな選択をし、どんな結果を得たか、経験として獲得できる。経験は、明日からの生活に活かすことができる。

この世界を生き延びていくための有益な知恵が作品には垣間見えた。人の痛みを自分のことのように感じることができる表現力があり、痛みを乗り越えるのに必要なものを示し、実践したくなるようなカタルシスを与えてくれる。

終わりに

クライマックスがやや物足りなかったけれど、ヨルシカの音楽は、見終わったあとも何度も聞いてしまったし、エピローグはとても幸福な気分にしてくれた。日之出の「日之出サンライズ」は、立場が逆転して世界がうまく回り出したことをよく表していて、けっこう好きだ。

この記事を書いた人

どんな映画にもいいところはあるはずと信じてます。好きな映画は、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」、「アマデウス」。好きな監督は、ヒッチコック、ジョン・ヒューズ、ジョン・カーペンター、クリストファー・ノーラン、ウェス・アンダーソン、ウディ・アレン、山田尚子、石立太一。好きな脚本家は、吉田玲子。

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