映画『ジョーカー』の感想

ストーリーに関わる内容を含みます。

 この映画はアメリカのコミックにでてくる悪役(ヴィラン)である「ジョーカー」が誕生するまでの人間ドラマです。この物語は暴力を肯定するものではありません。そのためのフィクションです。私達の住む世界とは違うことを忘れないでください。かの世界の暴力は象徴であります。私達が決して訪れることのできない「ゴッサムシティ」という街で繰り広げられるおとぎ話と言ってもいいでしょう。

 人間がどう考えようとも世界のありようはびくともしません。けれど人間は変ることができるのだ。私はそういう風に感じました。少し変わった感想かもしれないなと思ったので書くことにしました。

 最初に映される道化師の顔に、哀愁を、これからの物語を予感しました。表情だけではなく自らの手で口角をあげつくりあげた仮面のような表情が印象に残ります。

 場面が変わり道化師が看板を掲げ踊りながら店の宣伝をしています。通りかかった少年達にからかわれ看板を盗られてしまいます。道化師は取り返そうと追いかけます。人通りの無い路地裏まできたとき少年達に囲まれ、暴行されてしまいます。最後には金をうばわれ為す術もなく痛みに耐えているところから、物語ははじまります。

道化師=クラウン、涙マークがつくとピエロ。ハーレクインとも

 相応しくない場面で笑いを堪えられなくなる発作。バスの中で居合わせた子供に対する態度からは、なんだか優しそうな人だと感じました。家での場面では、母親と暮らしていることやコメディアンになるという夢があることがわかります。あまり恵まれた環境ではなさそうだという雰囲気も伝わってきます。

 ある日、同僚から身を守るためといって拳銃を譲られた後、家に帰って踊っていましたね。

 踊るといえば階段でのシーンが思い起こされます。これを書きながら「踊る」というのがこの映画のキーワードなんじゃないかなと思いました。なにか重要なシーンのあと主人公は踊っていた気がします。

 拳銃を手にしてから、おなじ階に住む女と出会ったり、劇場に出向いてコメディアン修行をしたり。主人公にとってお守りのようなものだったのでしょうか。少し希望がみえる明るい場面が続きます。けれど間もなく仕事で失敗して、首になります。希望は陰り変わらぬ日常に戻るかと思えました。

 地下鉄での事故で偶然、人を殺してしまいました。たまたま乗り合わせた3人の男達との諍いの中で銃弾が二人の命を奪いました。逃げ出した最後の一人を、追いかける姿はなかなか格好よかったです。あのとき主人公は他人とかかわるすべを知ったのだと思います。

 人は追いつめられると視野が狭くなることがあります。たとえば暴力を受けた時ただ黙って耐え忍ぶこともできる。けれど行動することで状況は変わるかもしれない。冒頭で描かれた少年たちとのシーンを思います。それまで嫌なことは受け入れるしかないと彼は考えていたと思うのですね。けれど、言い方はそぐわないかもしれないけれど、自ら他人に影響を与える事もできる。そういう風に彼にとって世界の見え方が変わった。

 父だと教えられてきた男と対峙する場面や実母だと思っていた女との決別。人の温かさみたいなものを血の繋がりに求めていた彼の世界の見え方がここでも変ったと思います。

 道化師の化粧って悲しく見えたりしませんか。けれど本当のところは分からないですよね。これから起きることへの期待と興奮が、その化粧の裏にあったのではないか?階段で踊った彼の心には既に「ジョーカー」が宿り始めていた。

 憧れていた人気番組の司会者マレー・フランクリンとの対話シーンの見所は主人公が本心を明かすことによって、彼自身がそれは本心ではないと気が付く事です。他人の目をとおして世界をみていたことに心から気が付いたのです。人は誰にも笑われてはならない。自分を貶める者たちを許してはいけない。それが正義(=悪)というものだ。

 護送途中にも暴動をみおろしながら踊るシーンがあります。主人公の事故をきっかけに煽られた対立の渦に翻弄される人々の表情はまるで仮面のようだ。その下には何も無い。時代のうねりに踊らされる操り人形のようではないか。

 道化師の表情に現れたスマイルに私は私自身の感情を重ねてしまいます。悲しみや怒り、あきらめの末のニヒル。それらは全て勘違いでしかありません。少なくとも私は私自身の感情さえわかりきることができない。私も操り人形のひとつだ。

 人はなすべきことをなすしかなく。けれど、その後に踊ることはできるでしょう。どう考えても変わらぬ世界ならば喜びを見出そうと思う。笑え、そして踊ろう。

That’s Life.

この記事を書いた人

映画を観たあとの自分って、太陽の光がなければ輝けない月のようだって思いませんか。

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